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書評 / 『スティル・ライフ』池澤夏樹

言葉がとても綺麗で、不思議と心があったまって涙が出てしまうような一冊。

シンとしている空気感の中、現実から遠い場所に自分まで連れて行かれてしまうような、引き込まれてしまうものがありました。

『スティル・ライフ』は、1988年の芥川賞受賞作。

「スティル・ライフ」と、「ヤー・チャイカ」の2編からなっている短編集です。

読まないと伝わらない優しさのある本ですが、綴られている言葉がとても素敵で、ふと読み返したくなる本でした。

✔︎この本がオススメの人

  • 最近ちょっと疲れたなあと感じる人
  • やるべきこと、やりたいことがわからない人
  • 綺麗な言葉に癒されたい人

あらすじ

物語は主人公の「ぼく」と、同じ染色工場でアルバイトをしていた「佐々井」の2人によって進められていきます。

ぼくが染色工場でヘマをして主任に怒られているところを佐々井が助け、それをきっかけに2人は飲みにいく仲になりました。

飲みに行くといっても、お互いに自分たちのことは話さず、アルバイトのことも話さず、ただ話すのは、星のこと。分子のこと。地球のこと。そんなことを話している2人でした。

度々飲みに行く仲になってからしばらくしたのち、佐々井から頼みごとがあると言われ、ぼくは佐々井の頼みごとを引き受けることにしました。

その頼みごとは、金を作るために株の売買の手伝いをしてほしいというものでした。

それから株の売買のため、佐々井はぼくの家に泊り込む生活を送ります。

佐々井の株の売買の仕事ぶりは見事でした。順調に金を作っている最中、佐々井は初めてぼくに素性を明かしました。

過去に会社から金を横領して逃げたことがある、と。その時の金を返すために金を作っており、これで逃亡生活を終わりにすると。佐々井という名も仮の名だ、と。

その事実を聞いたあとも佐々井は何も変わらず株の売買をし、無事に金を作ってぼくのもとを去っていきました。

ぼくは、佐々井を特別な人間だと感じました。

好きな言葉・感じたこと

こんな文章で物語は始まります。

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。世界と君は、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。たとえば、星を見るとかして。

二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過すのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。星を正しく見るのはむずかしいが、上手になれがそれだけの効果ががあるだろう。星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。

綺麗ですよね。なんども読み返したくなるような、詩的で、物悲しくて、ふわふわと軽いようで実は重たいような、、、。そんな文章です。

この最初の文章が、物語で伝えたい全てなのではないかな、と私は思いました。二つの世界があって、その二つの世界の調和をうまくしなさいよ、と。「ぼく」はその二つの世界の狭間で揺れ動いている存在です。佐々井は、二つの世界をきっちりと使い分けている存在です。私はそんな様に感じました。

物語の中で「ぼく」は、人生に対して少し焦りを感じています。長い生涯を投入すべき対象を探し、人生の全体の真理を探したいのだけれど、それができずにふらふらと生きていると書かれています。

寿命が千年もないのに、ぼくは何から手をつけていいかわからなかった。何をすればいいのだろう。仮に、とりあえず、今のところは、しばらくの間は、アルバイトでもして様子を見る。そういうことだ。十年先に何をやっているかを今すぐに決めろというのはずいぶん理不尽な要求だと思って、ぼくは何も決めなかった。社会は早く決めた奴の方を優先するらしかったが、それはしかたのないことだ。ぼくは、とりあえず、迷っている方を選んだ。

迷っている方を選んだぼく。でも本当は少し焦っていて、人生や世界を俯瞰しているような佐々井に対し、尊敬というか好奇心というか、そんな感情を抱いています。

「ぼく」が今ある目の前の現実に迷っていながらも、人生を俯瞰して見てしまう、そんなクセがあるのはなんだかよくわかるような気がしました。

以下は、私が好きだった一説です。雪が降っている日、「ぼく」が岩の上に座ってじっと降ってくる雪を見ているときの描写です。

音もなく限りなく降ってくる雪を見ているうちに、雪が降ってくるのではないことに気付いた。その知覚は一瞬にしてぼくの意識を捉えた。目の前で何かが輝いたように、ぼくははっとした。雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。ぼくはその世界の真中に置かれた岩に坐っていた。岩が昇り、海の全部が、厖大な量の水のすげてが、波一つ立てずに昇り、それを見るぼくが昇っている。雪はその限りない上昇の指標でしかなかった。

世界にぼくしかいないような、シンとした空気の中で僕が岩と同化して世界を昇っているような、なんとも不思議な感覚に包まれる文章です。

切なくて儚い気持ちになります。ぼくの状況と気持ちや雰囲気、息づかいが手に取るようにわかりました。

また、「ぼく」が佐々井のことを考えながらぼーっと神社の境内でハトを見ていた時の描写も素敵でした。ハトを見て「ぼく」は、今見ているハトの何千万年も前から広がる生命のことを考えました。

今であること、ここであること。ぼくがヒトであり、他のヒトとの連鎖の一点に自分を置いていきていることなどは意味のない、意識の表面の掠れた模様にすぎなくなり、大事なのはその下のリソッドな部分、個性から物質へと還元された、時を超えて連綿たるゆるぎない存在の部分であるということが、その時、あざやかに見えた。

今の「ぼく」ではなく、何億もの生命のつながりでできている「ぼく」として自分のことを捉えています。

少し視点を変えれば、いまの自分の状況、環境は全く違った見え方がしてくるということ。世の中には二つの世界が存在していること。そういうことを「ぼく」は佐々井と出会ってから身をもって経験していたのではないかと思います。

視点が、目の前の現実から遥か遠くに行ってしまう描写がいつも不思議と親近感があり、穏やかだけど切なさが残る感覚でした。

こういう空気感の本を説明したり、解釈するのは難しいですが、少しでも独特の素敵さが伝われば嬉しいです。

 

 

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